倉敷美観地区は国選定の重要伝統的建造物群保存地区です。風光明媚な町の景観に加えて、ここには歴史的な遺溝や建築物が数多く残されています。
現在の美観地区になっている辺りに、江戸時代に蔵が立てられました。それは美観地区の中心を流れる倉敷川が当時は川湊(かわみなと)として大変栄えていたからです。当時の倉敷川は汐入川(しおいりがわ)で、潮の干満に合わせて船が出入りしていました。
船には備南地方の米や作物が積まれていました。今でも路地に残っている石畳みは、糸の原料になる綿や取り引きした物をそれぞれの蔵へ運ぶための大八車(だいはちぐるま)が通る舗装道路でした。白壁と瓦を貼り合わせたなまこ壁が特徴の蔵や、倉敷窓や倉敷格子が特徴の民家が軒を連ねていました。
このように賑わっていた倉敷川周辺は、造園・茶人として有名な小堀遠州(1579〜1647)が奉行として治めていました。その遠州が慶長19年(1614)大阪冬の陣の時、徳川方に兵糧米を送ったのが認められて倉敷が天領となったと伝えられています。
天領(てんりょう)とは幕府の直轄地のことで、税金等の面で優遇されたため、ますます商工業が発達し、商品の取引も盛んになりました。
明治時代に入り、大原家は倉敷紡績所をはじめ、大原美術館や倉敷民藝舘など多くの文化施設を造り、倉敷の発展の基礎を作り上げました。
特に大原総一郎の「倉敷を日本のローテンブルグ」にしようという提言が今日に至るまで受け継がれ、倉敷の「美観地区」保存の根源となっています。
この美観地区21ヘクタールのうち、13.5ヘクタールが昭和54年(1979)国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、平成10年(1998)には1.5ヘクタールが追加拡大され、現在は15ヘクタールが指定されています。
倉敷市は他に先駆け、平成2年(1990)に中橋を観測点に、周囲の景観を守るために「保存地区背景保全条例」を制定し、ホテルやマンションの高層建築は認められていません。
電柱の地中化事業が平成26年(2014)11月に終了し、7年間にわたる整備で1.3kmの区間の電線が消え、景観に合わせた照明灯や舗装もほどこされ、町並みの趣が増しました。