名前: 倉敷川
読み: くらしきがわ
倉敷美観地区周辺は、むかしは吉備の穴海と呼ばれ、大正無数の島々がありました。天正12年(1584)岡山城主である宇喜多秀家によって始まった干拓は江戸時代以降も続き、島々は陸続きとなって現在の平野が形成されました。

元和元年・寛永期(1615〜1644)に南部が干拓され、児島と陸続きとなりました。それまでは廻船が澪(みお)を伝って入港していましたが、新田開発によって舟の通行に支障がでたことや、村々の悪水を吐き出す川がなかったことから倉敷川が作られました。

船が入り込むための舟入川の確保を目的に整備された倉敷川は、従来の澪を利用しつつ、高梁川からの農業用水が導入されています。

倉敷に代官所の陣屋ができてから、代官所は倉敷川を利用して御城米(年貢米)輸送を倉敷村に命じています。安永6年(1777)の小野家文書によると、倉敷川を利用した輸送物資は塩、茶、干鰯(ほしか)、材木、米、綿花、雑穀などで、これらの商品を扱う商人が倉敷川沿いに立ち並び、現在の町並みが出来上がりました。さらに明治になって、倉敷紡績が創業してからは、原綿、石炭などが陸揚げされて賑やかさが増しました。

昭和10年代(1935〜)中頃までは、中橋の近くまで原綿などを運ぶ船が入ってきており、倉敷川が重要な物資の運搬手段でしたが、戦後の食糧増産のため児島湾の淡水化工事が国の事業として進められ、昭和31年(1956)2月、児島湾の潮止め工事が終了することによって、倉敷川の汐入川としての役目は終焉しました。
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